frantic87's diary

書きたいときに、書きたいから書く

いのちの価値は

白鳥士郎『のうりん5』読みました。

パロディ、変態、超人なんでもありごった煮の本シリーズですが、命を扱う畜産業を取り扱った今巻はいつもよりシリアス成分強め。

 農業よりも畜産のほうが、人間が他の生命を利用していることを強く実感できます。

肉を食べるために屠殺するのは残酷といえば残酷ですが、酪農だって人間に置き換えてみればたいがい酷い。むしろ酪農のほうがエグいかも。ホルスタインは乳量を改善するために品種改良されていて、仔牛が必要とする何倍もの牛乳を分泌し、その肥大した乳房は大きすぎてむしろ仔牛の授乳の邪魔になっている。病気などで飲用に適さない牛乳も絞ってやらないと牛の健康を害します。もはや自然界では自生できない動物になっています。

また、必要な牛乳を得るために年に1回人工授精で妊娠させ、生まれた仔牛は早々に母牛から引き離します。強制妊娠&搾乳というエロ同人もびっくりの展開が現実にあります。

また農業も、品種改良した作物も化学肥料&人間の世話がなければ生育できない、ある意味奇形になっているのが現実です。

酪農についてはさほど触れていませんでしたが、そういう内容にキャラクターが直面するのがこの5巻でした。

作中では、牛舎や鶏舎に勝手に乗り込んでくる動物愛護団体やら飼い犬の声帯や尾を(病気などの理由でなく)切除した飼い主が出てきます。かたや動物の権利を尊重し、かたやペットをアクセサリー扱いする。前者が正しくて、後者は間違っている。それで合っているのでしょうか?

私はそうは思いません。良いも悪いも人間です。良し悪しに客観的・科学的な判断の基準があるわけではありません。「心臓が止まれば死ぬ」は科学的事実ですが、「人を殺してはいけない」は人間が作ったルールです。どこまで・どのくらい動物の権利を尊重するかも線引は主観的なものです。時代、社会、環境などのファクターによって線の位置はゆれ動くでしょう。アフリカの子どもたちが貧困に喘いでいることに涙を流す人もいれば、自分の半径5メートル以内の人間にしか興味のない人もいます。つまりそういうことです。動物愛護団体の人はレンジが広い、それだけです。

問題はどこまでを権利の対象とするのかではなく、動物愛護団体の人にはそういった主観を押し付けてくる傾向があることです。まあ権利の主体である動物たちは、申し立てをすることができないので、しょうがないと言えばしょうがないのですが。でも主観の押し付けは文化侵略と同じです。人の家に土足で踏み込むような真似に反感を覚えます。

どこまで権利の主体として見ることができるのか、という問題には興味があります。

いまの世の中は、個々の生命に権利が宿るという思想です。でもそれって不思議じゃありません?100gのラットも500kgのホルスタインも同じ一つの命として扱うのです。重量比にして5000倍です。そもそもひとつの命という見方だって主観的です。細胞が集まって組織(たとえば胃の粘膜)を作り、組織が集まって器官(胃や脳など)ができ、器官が組み合わさって個体になります。胃の権利や手足の権利っていうものは認められないのでしょうか?また、細胞だってさらにその下部構造の細胞小器官に分けることができます。絵を描くときに輪郭線を書きますが、現実にはそんな線は存在しません。人間の脳がものを見分けるときに、そう認識している抽象的な線です。命の区別もそれと同じだと思います。

境界線を敷くひとつのポイントは、「知性」ではないかと思います。イルカや牛の権利を尊重する動物愛護団体はそんな感じです。苦しみを感じるかどうか。

 

彼らの動物の福祉(animal welfare)、動物の権利(animal rights)という思想・運動で動物の扱いはかなり改善されました。人間自身の利益につながった面もあります。人間以外の生命が尊重される世界は見た目麗しいかもしれません、でもそれは本質ではありません。いかに丁重に取り扱っていても、自分の生命のために他の生命を利用しているという点には変わりありません。いかに清潔に取り繕っても、一皮むけばグロテスクな現実があります。

いや、グロテスクなのが悪い、と言っているのではありません。グロテスクと判断するのもやはり人間です。他者を食い物にして利己的に生きていたっていいのです。

 

ただ、そういう現実・問題にときどきは向かい合うことには意味があると思います。思いつくままに書いていたら長くなりました。

今巻は読んでとても良かったです。