いつでも読めると思うな
今日一日で大きな案件がひとつ片付きました。疲労もあって少しハイになっています。
程よく疲れた頭でつらつらと書いていきます。
前回の続き。
rssやニュースサイトをチェックし、ほとんどのテキストは1度きりしか読まないなかでほんの極わずか、何年経っても読み返すテキストがいくつかあります。懐かしい人思い出すかのように、日常のふとした折に昔読んだ内容が思い出されるのです。自分でも理由がよく分からないのですが、心につきささるテキストというものがあります。
そのうちの幾つかはまだサイトが現存しており、普通に検索して読めるのですが、なかにはサイトが消滅して読めなくなっているものも多いです。一応、Internet archiveという便利なサイトがあるので、一部のテキストはサルベージして読める場合もあるのですが、完全に読めなくなったものも少なくないです。もっとしっかり読んでおけば良かった、せめてデータだけでも保存しておけばよかったと思います。
この気持ちは故人を思うのと似ています。つまり、彼/彼女ともっと話をしておけば良かった、もっと知りたかったという気持ちです。
もちろん、それらのテキストの筆者はおそらくかなりの確率で存命しているはずですが、仮に彼等に会うことができたとしてもそれは私が会いたいと思った「筆者」ではありません。彼等はテキストを書いた頃から大きく変わっているはずですし、それ以前に私たちの想定する「筆者」と生身の人間の筆者の間には埋めても埋まりきらないズレがあります。
筆者というのは「わたし」の頭のなかにだけ居る故人です。
(このへんの語り方は前回のエントリで引用させていただいたishさんの劣化コピーでしかありませんが…)
なんだか話がズレてきました。要は、読めるときに読めるだけ読んで、価値があると思ったらローカルに保存していつでも取り出せるようにしておけ、ということが言いたかったのですが。この用途にはevernoteが重宝しています。
最後に、過去のエントリを漁っていてこんな記事があったのを思い出しました。
ブログはいつ死ぬのか、ウェブの噂も75日、光もともに運ばれて行く(吹風日記)
このエントリが最新タイトル欄に並んでいることに無常を感じます。テキストそのものはデジタルな情報であり、(データが保存されている限り)不滅です。しかしブログには寿命というものがあるようです。
このブログもいつまで続くんでしょうかね。